引又河岸

しののめの里

「しののめの里」という斎場からスタートです。この新しい斎場が出来上がる前は一面の田んぼでした。奥に見えるお寺や工場はその当時一段高い場所になっていて、昔は新河岸川がそこを流れていたという話を聞かされた時、信じるに充分な証拠となっていました。今昔マップで明治の頃の地形図を見て、改めてその話が本当だったんだと確認出来ました。

本河岸

直ぐに254号バイパス(川越-富士見線)へ突き当たります。この時、対岸に見えるお宅が(鶴馬)本河岸だった所です。

地形図1

今昔マップで1896-1909年(明治29-42年)を表示すると、地形図には本河岸と書き込まれています。昭和48年に火事で消失するまで、このお宅には回漕業を営んでいた当時使っていた大福帳などが残されていたとの事。

下の鶉町という地名は現在も残っています。本河岸から近いですが、ここにも鶉河岸という河岸が在りました。

水神宮

木染橋を過ぎ、暫く行くと石碑が在りました。草書体なのでよく読めませんが、水神宮と書かれている様です。かつてこの辺りに山下河岸が在りました。しかし、それは対岸の筈です。渡し舟場が在ったそうなので、それに関係するのでしょうか。

浦所バイパス

更に進むと堤防は浦所バイパスにぶつかりますが、歩道は橋の下を潜って続いていました。

中継ポンプ場

浦所バイパスを過ぎると左手に中継ポンプ場が在ります。旧新河岸川はその向こうをぐるっと囲む様に流れていたみたいです。昔、もうちょっと先にお好み焼屋が在って、子供の頃何度かチャリで行ったのを憶えています。あの辺は当時旧堤が残っていたんですが、今でも変わらないんだろうか。

袋橋

袋橋です。この橋を渡って突き当りまで行った所、さくら記念病院の辺りに前河岸が在りました。今でもそちらの方へ大きく蛇行する旧新河岸川が残ってます。あの辺は車で頻繁に通るんで、現在どんな状況か分かってます。わざわざ行く必要が無いんで通過します。

コスモス

もうコスモスが咲いています。

水門

ここにもかつての流れが残ってますね。この水門の所から志木市役所とマンションの間へ流れていた様です。

地形図2

この辺は荒川に合流する辺りと並んで大幅に改修されています。今となっては当時の姿が想像も付きません。

いろは樋

いろは橋の袂に在る、いろは樋の大枡と川床を通っていた鉄管です。宗岡河岸が在ったのはこの辺らしいです。現在は埋め立てられ、住宅が建ち並んでいます。

新河岸川

当時の新河岸川はここを流れてませんから、引又へ行くのも栄橋を1つ渡るだけでした。

いろは親水公園

富士下橋までの間がいろは親水公園になってます。直線的な川に対し、ここの堤防はカーブを描いてました。旧堤をそのまま補強しているんだと思います。

富士下橋

袋橋からずっと続いていた舗装が富士下橋で終わります。歩くにはこっちの方が良いです。

旧堤

おっ、旧堤が確り残ってますね。恐らく昔のまんまなんでしょう。しかし、いつの間に離れたんでしょうか。親水公園では旧堤を歩いていたと思うんですが。

宮戸橋

宮戸橋に着きました。古い地形図を見ると、少なくとも新河岸川改修までここには橋が無く、従ってこの道路も存在しませんでした。農家っぽく見えるこの辺の家も、昭和に入ってから越してきたお宅です。

対岸が宮戸河岸だった所です。帰りに向こう側を歩いているんで、宮戸河岸は後ほど。

旧堤

新宮戸橋手前でも旧堤が見えます。随分遠くなりました。

旧堤

地形図を見ると、武蔵野線手前辺りで堤防が途切れている様に見えます。通り抜けられるか分からないんで旧堤を歩く事にしました。ちょっと飽きて来たんで丁度良いかも。

新宮戸橋で左に折れ、最初の信号が在ったら旧堤です。なだらかな坂に変わってますが、直ぐにそれと分かりました。

旧堤

旧堤は舗装された車道になってました。

神社

神社が在ったんで寄ってみました。明治末の地形図にも鳥居マークが描かれています。拝殿は建て替えられて新しいですが、他の建物は当時の雰囲気を漂わせていました。

神社

特に鳥居横のこれ。江戸時代のものと言われても信じますよ私は。

それと拝殿前の公孫樹も太くて歴史を感じます。

武蔵野線

旧堤から右に折れ、ここで武蔵野線を越えます。この道(直進)は明治時代の地形図にも描かれている古い道です。

旧新河岸川

内間木公園でもう一度右に折れ、公園裏手に回ると旧新河岸川が残っていました。クリーンセンター手前の溝がそうです。

新河岸川景観サイクリングマップ(pdf)だと、濱崎河岸は現在の地形図で言う所の新河岸川の「河」の字の対岸辺りになってます。しかしこれ、個人的にはどうにも納得出来ません。あんな道も無い所に河岸を造るものでしょうか。荷揚げした荷物を堤上に上げるだけでも大変です。

地形図3

一方、赤○の位置と仮定したらどうでしょう。丁度上段写真の辺りです。河原に下りる道は堤が90度折れているんで、いくらでもなだらかに造れた筈です。こっちと考えた方が全て丸く収まる気がするんですが。

堤防

さて、堤防に戻ります。写真は新盛橋を過ぎた所。ここから暫く草薮が酷かったんで堤下を歩きました。

堤防

調節池外周の堤防です。こっちは綺麗に刈られていました。

資材置き場

新河岸川堤防は資材置き場みたいな所で突き当たってしまいました。向こう側に堤防は続いているんですが、草薮が酷くて入れません。

堤防

調節池外周を行くしかないか、という事で一旦引き返し、そちらに入りました。すると、少し行った所で丁字に分かれていました。ここから回り込めそうです。

資材置き場

思った通り、資材置き場の先に繋がってました。変な構造ですね。資材置き場の業者が不法に占拠している、という訳ではなさそうです。

堤防行き止まり

しかし安心したのも束の間、直ぐまた行き詰ってしまいました。鉄パイプの柵で仕切られ、酷い藪でそれ以上進めません。後に分かりましたが、この先は堤防が低く切られ、増水時に調節池へ水が流入する様になってます。

右の白いビルみたいのが朝霞水門で、その向こうはもう荒川です。左の吊橋は幸魂大橋です。本当に残り僅かなんですが、ここで引き返すしかありません。

地形図4

現在地の対岸辺りが台河岸で、この先に井口河岸、大根河岸、新倉河岸と続きます。大根河岸は問屋・店が在った訳ではなく、付近の農家が神田市場へ出荷する、大根等の野菜を積み出す為の船着場だったそうです。現在は下水道終末処理場となって新倉河岸とともに跡地は残っていません。

井口河岸も同じです。工業団地になってしまったので、跡地はどこかの工場に変わり一般人は入れません。

黒目川合流

分かっていても取り敢えず近くまで行きたかったのですが、これでは無理です。時刻は15時38分になってしまいました。別の道から迂回する時間的余裕は有りません。もう帰り始めないと暗くなってしまいます。非常に残念ですがここまでとします。

写真は黒目川合流部分。台河岸は左端辺りになります。

武蔵野線

新盛橋から右岸に移りました。

宮戸河岸

「宮戸河岸は川魚料理柳家の辺りに在った」と、或る本に書いてあったんで来てみましたが、柳家も既に無くなってました。何かの看板が見える空き地が柳家の在った所です。

旧堤

宮戸橋から左岸に移り、往きで見た旧堤を歩いてみました。舗装されてますが、往時の面影を残した雰囲気の有る道です。

何やら小さな石柱が在りました。表は風化して読めませんが、側面に彫られた天明九年ははっきり確認できました。

浦所バイパス

袋橋で再び右岸に移りました。バイパスを潜るといよいよ山下河岸跡です。

地形図5

山下河岸には二軒の回漕店が在ったそうです。上流に向かうと、木染橋までの間に前半が山下、後半が町谷前(現在の地形図だと町屋前)と続きます。山下河岸なんだから当然山下に在った筈です。

その辺りの流れは昔とちっとも変わってないんじゃないでしょうか。重ねると若干のずれが有りますが、当時は測量のみに頼っていたでしょうし、手描き丸出しの地形図ですからそれ位の誤差は有って然るべきでしょう。

山下河岸付近

それに、こんな僅かな移動の為にわざわざ工事を行うとも思えませんしね。

河岸跡の場所は分かりませんでした。何処もそれらしく見えて特定できません。写真の場所はそれなりの平坦地も有り、かなり怪しいですがどうでしょうか。

河川跡

防災ステーションの所で旧河川は徐々に逸れて行きます。これだけはっきり河川跡が感じられる所は他に無いです。新河岸川随一と言って良いでしょう。

鶉河岸

江川合流地点まで戻って来ました。鶉河岸が在ったのはこの辺りです。本郷中学校手前のあのお宅が回漕店を営んでおられた様です。屋敷裏に水神宮が残っているとか。

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