我が家から1番近い志木市内は上宗岡で、車なら数分、歩いても20分掛からずに市境へ達します。その上宗岡にも富士塚が在る事を同じサイトで知り、ついでに立ち寄ってみました。かつて荒川堤外に在った浅間神社と富士塚ですが、大正末期から昭和初期にかけての荒川改修により遷座。更に、昭和48年開通の浦和所沢バイパス工事によって再び移転し、現在地の羽根倉橋西交差点角に落ち着いたそうです。
志木市の公式ホームページに載っている羽根倉浅間神社の縁起によると、建久4年(1193)に源頼朝が富士の裾野で大がかりな巻狩りを行った際、宗岡の人達も勢子として招集され、その代償として田の年貢が免除された為、これを記念して塚を築き富士浅間を祀った事に始まるとあります。何故こんな遠方から人を集めたのか…ちょっと無理が有る様な気がしますが、調べてみたら案外可能性が有る気がしてきました。
大宮の氷川神社-所沢の中氷川神社-奥多摩の奥氷川神社を結ぶ道が古くから存在し、それが羽根倉を通っていたと考えられる事や、足立郡衙の比定置として羽根倉橋を渡った対岸の大久保領家が有力である事などから、この辺りには人が多く住んでいたと思えます。その頃に宗岡の地を領有していたのは難波田高範で、彼は武蔵七党の村山党に名を連ね、村山党の中心人物である金子家忠とは兄弟である為、頼朝との関係も浅くなかったのではないでしょうか。
写真は新河岸川堤防からのいろは橋。
それ程遠くない氷川神社は頼朝を含む関東武士の信仰の対象であり、治承4年(1180年)には頼朝により社殿が再建されるなど、縁のない土地でもありません。それでもわざわざ遠く離れた宗岡の里人を使役するには理由付けが足りないと思いますが、頼朝は同じ年に武蔵国入間で追い鳥狩りを行っており、これが曾我兄弟の仇討ちで有名になった「富士の巻狩り」と混同されてしまったのではないか、ともされています。ただ、その場合今度は浅間神社を祀る理由が無くなりますが、どちらかの狩に使役されたのは間違い無さそうです。
浅間神社から新河岸川の袋橋まで行き、そこから堤防上の歩道を使いました。しばらく振りに訪れたいろは橋周辺はだいぶ変貌していて、新河岸川と柳瀬川の合流地点は公園になっていました。志木街道から旧村山快哉堂が移築され休日であれば1階部分が開放されているので自由に見学出来ます。
パンフレットと一緒に貰った文化11年当時の引又(ひきまた)宿古絵図です。赤い印の付いている所が村山快哉堂の在った所で、現在の富士道交差点のすぐ近くでした。クリックで拡大します。
いろは橋から下流に向って左岸を行くと、旧提に沿って桜の老木が並んでいます。幹の直径が1m位あるので、相当昔に植えられたのだと思います。開花時期に行くと壮観でしょうね。更に進むと歩行者用の富士下橋が架かっていて、写真はそこから上流を撮影したものです。左から柳瀬川が合流する辺りに、かつて引又河岸(後に志木河岸)が在りました。
志木市が刊行した「ふるさと写真集」によれば、日露戦争の時物資の運搬に舟運が利用され、引又河岸は大変な賑わいだったそうです。大正時代に入ると、ほぼルートを同じくする東上鉄道(現在の東武東上線)が開業し、舟運は衰退していきました。
江戸時代初期に、九十九曲りと言われる多数の屈曲を持たせる改修工事を実施し、流量を安定化さて江戸と川越を結ぶ舟運ルートとしましたが、反面、大雨の時には洪水被害が著しく、昭和に入ると再び直線化の工事が進められ、流量が保てなくなって舟運の時代は終わりを告げました。写真は対岸から撮影した引又河岸跡地。
大正初期の引又河岸と付近の様子です。栄橋は現在柳瀬川に架かる最下流の橋となっていますが、この当時は新河岸川に架かる橋であり、柳瀬川は橋の直前で合流していました。川幅も今よりずっと狭く、いろは保育園の裏手に現在も当時のまま残っています。柳瀬川も改修前は複雑に蛇行していて、その流れの痕跡が栄橋から1つ上流の高橋にかけて、市境界線として見る事が出来ます。
富士下橋を渡ると正面がいろは親水公園であり、その小さな公園を抜けると目指す敷島神社の裏手に出ます。神社へ行く前に引又河岸跡地まで行ってみました。現在は引又観音堂と碑が立つだけで目立たない為、そうと知らなければ誰もが素通りして行く事でしょう。
これも河岸跡からの撮影です。左が栄橋、奥のビルは志木市役所で、正面の木が茂っている所に旧村山快哉堂が移築されています。
昭和28年頃の栄橋です。上の写真と同じ様な構図で、見比べると川幅は今よりずっと狭かったのが分かります。
引又河岸跡を離れ、敷島神社にやって来ました。いや懐かしい。社の左、桜の向こうに何となく見える盛り上がりが田子山富士と呼ばれる富士塚で、平成18年に県指定文化財になりました。その為か、子供の頃は登って遊んだのですが、今は入る事が出来ません。
渦を巻くような登山ルートが有ったと記憶しているのですが、登れなくなって久しいのでしょう、全面草薮に変わっていました。うちの方では田子山富士と言う呼び方は余りなじみが無く、多分「泥富士」から転訛したのでしょうが、「どろっぷじ」と呼んでいました。
何を隠そう我が街富士見市にも富士塚が有ります。実は、同サイトで見付けるまで知りませんでした。ふじみ野駅と川越街道の間に在るオトウカ山(お稲荷の音読み)がそれです。かつて辺り一面が畑だった頃に、9年間も通勤ですぐ近くを通っていたのですが、まるで気付きませんでした。写真がそのオトウカ山で、今は公園になっています。
公園入口の説明書きによると、昭和34年の埼玉県古墳所在調査では古墳として報告されていますが、その後の発掘調査でも石室や古墳時代の遺物は発見されておらず、塚の上に富士浅間太神の石祠が在った事などから、今では浅間塚だと考えられているとの事。その富士浅間太神は勝瀬(オトウカ山の所在地も勝瀬でしたが、地名変更により今はふじみの西に変わりました)の榛名神社に移され、境内に末社として祀られています。
左に藤塚神社、右に富士浅間太神と並んでいます。藤塚神社については、富士見市のホームページにオトウカ山頂上に立てられていたのを移したと言う記述が有り、どちらが正しいのか、或いは両方ともオトウカ山から移されたのか、定かではありません。
さて、志木の散歩続きに戻ります。鎌倉時代には鎌倉街道が羽根倉を通っていて、幸町の鎌倉街道跡、柏の城址などを結ぶともっと柳瀬川寄りに中心地が在ったのだと思います。今、志木街道と呼んでいる道は奥州道(脇街道)であり、舟運が盛んだった江戸時代に、新河岸川との交点にあたる引又が次第に栄えていったのではないでしょうか。かつての引又宿であるこの通りには、大分少なくなってしまいましたが写真の様な家がまだ数件残されています。
引又宿は元々舘村の一部でしたが、寛永2年(1625)に分離独立し、引又村となりました。明治7年(1874)に再び舘村と合併したのですが、その時には経済的にも知名度でも親村を超えていた引又宿と、平安期から続く歴史と本村である誇りがある舘村が、合併後の村名は自分の村名を継承するべきとして互いに譲らず意見が対立しました。そこで命名を県(当時は熊谷県)に委ねたところ、風土記などに見られるこの辺りの地名らしき志木郷から名を取り決着したと言う事です。
しかし、長い間慣れ親しんできた名称をすぐに捨てられなかったのか、ヒキとシキの音が近い為「志木又」という呼称がそれから半世紀以上も用いられました。私の祖母も「シキマタ」と呼んでいたのを覚えています。
志木街道を再び栄橋方面に向かい、市場坂上の交差点まで行くと角地がポケットパークの様になっていて、引又宿に関する展示がされています。写真は旧西川家潜り門で、武州一揆の時に付けられたという刀傷が今もはっきり確認出来ます。
もう一方の角には小枡・大枡と木樋の原寸大模型が展示してあります。更に引又宿のジオラマがガラスケースに設置され、なかなか面白い展示物でした。
ジオラマと一緒に展示してあった木樋だった頃のいろは樋の写真です。48個の樋を繋いで出来ている為いろは樋と呼ばれたそうです。引又河岸の対岸に在った宗岡河岸からの撮影でしょう。
続いて向ったのは幸町の塚の山古墳近くに有る鎌倉街道跡です。途中の柏町でも出光GS裏辺りに鎌倉街道と表示された細い路地を見付けましたが、舗装された50m位のどこにでも有る道でした。志木市歴史まっぷによると、鎌倉街道跡は塚の山古墳のやや南に位置するみたいですが、塚の山古墳自体が見付けられず、従って鎌倉街道跡もどこだか分かりませんでした。
地図上で塚の山古墳が有るはずの所は公園になっていました。縦横に幾つか道が通っていたので、そのうちの1つが鎌倉街道跡だったのかも知れません。
左の写真は昭和30年代の大塚延命地蔵尊です。塚の山古墳より少し南の大塚交差点での撮影ですが、この当時は北向きだったみたいです。背景の辺りが志木駅方向ではないでしょうか。柳瀬川駅が出来たばかりの頃は、これ程ではなかったですが今よりずっと家が少なく、畑が目立ったのを覚えています。
昭和42年の道路拡幅工事で反対側に移され、今は南を向いています。
富士見橋の富士見市側から志木市柏町方向を写したもの。昭和17年撮影。戦争真っ只中ですが、この辺はのんびりムードです。
上と同じ場所を撮りました。随分変わってしまいましたね。川を挟んだ富士見市側は対照的に水田が広がっていますが、駅から近いだけにいつまで変わらずにいられるか分かりません。
ここまで舗装路ばかり歩いたせいか、右足首が痛み出してしまいました。歩けない程ではないので我慢して歩いて帰りましたが、街中を長距離歩くのはもうこりごりです。